【連載『バブルの王様』第二部第1回】大手ノンバンク「アイチ」を率いてバブル経済の頂点に君臨した森下安道は、数々の大型経済事件に関わっていく。画商でもあった森下にとって、それはまるで「展覧会」であった。『バブルの王様 アイチ森下安道伝』の第二部1回目、ノンフィクション作家・森功氏がレポートする。(文中敬称略)
【写真】取り立ての厳しさから「マムシ」と呼ばれた森下安道氏
* * * 摂政時代を含め、2度の世界大戦に直面した天皇が崩御し、元号が昭和から平成に移った。国民が喪に服した1989年、平成の始まりに日本はバブル景気の絶頂へと向かう。連載第一部で報じてきた通り、狂乱景気を謳歌したアイチグループは、貸金取扱高を1兆円の大台に乗せ、森下安道は全国の銀行株を買い占めた。福徳銀行にはじまり、地銀のなかでも最大級の横浜銀行や京都銀行の株を買い、さらに都銀の大和銀行まで触手を伸ばした。 バブルの頂点に君臨した森下は、ここから多くの経済事件にかかわる。森下自身は、1967(昭和42)年から1975年にかけ、暴行や詐欺、出資法違反、恐喝の疑いで4度逮捕されている。だが、起訴はされず、当人はそのほとんどで罪を免れてきた。起訴された刑事事件は意外に少ない。アイチを設立した草創期の1971年に脱税で摘発されたあと、1975年にトイレ洗剤メーカー「サンポール」社長に対する強要事件を引き起こしたくらいだ。
もっとも、そこから「マムシの森下」、「企業の葬儀屋」、「地下経済の帝王」などというありがたくないあだ名で呼ばれるようになる。それだけに、刑事事件を恐れるようになったのではないだろうか。 その森下が最後に逮捕、起訴されたのは1980年代半ば、照明・オーディオ機器メーカー「アイデン」偽装増資事件だった。東京地検特捜部によって摘発された。それ以来、数多あるバブル経済事件に深くかかわっていながら、本人は捜査対象にはなっていない。それはアイデン事件で何らかの教訓を得たからのように思える。
名機AFスピーカーシリーズで知られるアイデンは、1970年代のオイルショック以降、業績が低迷してきた。資金繰りに窮した創業家の社長・山内礼一や常務の渡辺歳之のすがった相手が、森下だった。山内らは新たな株を発行して資金調達をしようとし、森下がそれに応じた。いわゆる第三者増資である。 森下と山内は1984年2月、1株250円で1280万株、32億円分の新株をトランジスタ製造販売会社「東洋電子工業」社長・橋本孔雄などに引き受けさせた。かねて森下を捜査のターゲットに据えてきた東京地検特捜部は、これを架空の見せかけ増資だと睨んだ。事実、新株を引き受ける予定だった東洋電子やアイデン子会社の「アイデン商事」では、株を買う15億円の金策がおぼつかなかった。そのためアイチが東洋電子に10億円、アイデン商事に5億円を貸し付けた。 むろん森下に抜かりはない。融資する際、2000万円の利息と同時に、株式払い込み保管証書をカタ(担保)にとった。株式払い込み保管証書とは文字通り、出資金が増資した企業の口座に払い込まれたという証明書だ。現在は不要だが、旧商法では株式増資した事実を登記するときに必要と規定され、銀行が発行してきた。 アイデンもまた、この株式払い込み保管証書を使い、東京法務局に増資の登記をした。東洋電子やアイデン商事がアイチから融資を受けたひと月後の1984年3月だ。発行済み株式総数1008万株から2288万株に変更する登記申請をした。
ただしこの株式払い込み保管証書は、企業が資金を得た証に過ぎない。登記手続きさえ終われば用済みとなる。森下たちはこれを巧みに利用した。アイデンの増資登記が終わったとたん、森下は東洋電子とアイデン商事の2社から15億円の貸金を回収した。その返済原資がアイデンに払い込まれた15億円なのは言うまでもない。とどのつまり、資金をぐるっと回し、登記という事実だけを残すための見せかけ増資にほかならない。 案の定、アイデンは増資したわずか2カ月後の1984年4月、再び資金が枯渇して倒産する。森下はこの間、創業家の山内一族が経営権をアイチに譲れば40億円の融資をする、と持ち掛けた。それがアイデンの労働組合の知れるところとなって「会社の乗っ取りだ」と拒否され、山内は自己破産の道を選んだ。 架空増資をして会社の経営状態を誤魔化し、新株を担保に金融機関などから融資を受ける。アイデンも5億6000万円の融資を騙し取った。増資詐欺は今もたまに見られるが、その元祖の事件だといえる。
東京地検特捜部はアイデン経理担当常務の渡辺を計画立案者、森下を共犯と見立てた。1985年8月以降、渡辺と森下、東洋電子の橋本らを公正証書原本不実記載や詐欺罪で逮捕、起訴した。もっとも、森下自身はしょげ返っている様子はなかった、とアイチの関係者が振り返った。「融資をはじめ会社の書類はもちろん、社員の手帖まで地検に押収されたから、やはり業務に支障はありましたね。幹部社員だけでなく、取引先も連日事情聴取に呼ばれていました。(森下)会長自身はすぐに容疑を認めたから、接見禁止は間もなくとけた。小菅の東京拘置所にいるあいだ、会社の役員が入れ代わり立ち代わり、毎日接見に通い、そこで会長が社員に仕事の指示を出していました」
9月6日に逮捕された森下は3カ月後の12月9日、保証金1000万円を東京地裁に積んで保釈が許された。拘置所に迎えに来た真っ白のロールス・ロイスに乗り、東京拘置所をあとにした。 捜査当局にマークされ、とかく評判のよくなかった森下の事件だけに、世間は騒いだ。おまけにここには、大物フィクサーも見え隠れしたから、なおさらだった。
この年の11月12日、アイデン事件の初公判が東京地裁で開かれた。起訴状に続く冒頭陳述で検察側は次のように明かした。「資金繰りに困った(アイデン社長の山内)被告人らは、第三者割当てによる増資を計画、小佐野賢治国際興業社主に新株引き受けを頼んだが、断られ、このことが犯行に走る理由の一つとなった」 もともとアイデン側の相談相手が、国際興業社主の小佐野賢治だったというのである。事件における小佐野の関与は明らかにはならなかったが、検察が初公判で小佐野の存在を仄めかした裏には、それなりの理由がある。戦中に軍需物資を売りさばき、戦後、ホテル王として成り上がった小佐野と森下には、深い因縁がある。 アイデン事件が起きた頃、小佐野はロッキード事件で公判中の身だった。1977(昭和52)年に国会の偽証罪(議院証言法違反)で東京地検に起訴され、1981年に東京地裁で懲役1年の実刑判決が言い渡されたあと控訴した。そのあいだも精力的に経済活動を続け、この頃は、1970年代に買収した帝国ホテルの会長となった時期にあたる。
アイデン社長の山内は、当初、国際興業グループの中核企業の一つである国民相互銀行に資金繰りを頼もうとした。それを断られ、アイチの森下が小佐野に代わって増資の面倒を見た格好だ。公判でその事実が判明し、アイデン事件に対する小佐野関与説が取り沙汰された。「地検特捜部の本丸は小佐野ではないか」 そう囁かれた。アイチの元幹部社員が当時の状況を説明してくれた。「小佐野さん本人から話が来たかどうかはわかりませんが、(森下)会長は小佐野さんに心酔していましたから、アイデンの山内社長から増資の話をされたとき、見せかけ増資のアイデアを出したのではないでしょうか。会長にとって小佐野さんの存在はそれほど大きかったと思います。その小佐野さんとどのようにして知り合ったのか、そこについては聞いたことがありませんが」
小佐野との邂逅について、私も生前の森下に尋ねたことがある。だが、こう言を左右に誤魔化した。「あれは誰の紹介だったのかな。(武富士の)武井(保雄)さんからのような気もするけど、よく覚えていません」
森下が小佐野と親しくなったのは上野毛の小佐野邸に豪華な付け届けをしてきたからだという説もある。魚屋で買った高級魚を伊豆で釣ったと称して手土産として持参したとも囁かれてきた。それを素直に尋ねると、森下は大笑いした。「そんなことするわけがないでしょう。あまりに出来すぎた話だな。そう言って面白おかしく作り話をでっちあげる人がいるんですな。小佐野会長とは国際興業のビルを八重洲に建てたときに関係ができたんだったと思う。誰の紹介かは忘れたけど、ずい分世話になりました」
古い記憶を呼び起こしてくれた。「たしかに小佐野会長とは親しくさせてもらいましたよ。いっときは三日に上げず会っていました。1週間も連絡をしないと、電話がかかってくる。小佐野会長は三木武吉の彼女がやっていた神楽坂の料亭『松ヶ枝』を譲り受けていて、そこでよくいっしょに飯を食ったね。会長の別宅なんて呼ばれたけど、食事をしても必ず家に帰っていたよ。私の家がその帰路の途中なので、上野毛の家までいっしょにね。上野毛は7000坪の敷地の広大な家だけど、今でも奥さんの英子さんが住んでいるんじゃないかな」
やはり小佐野のこととなると思いが深い。次のようなエピソードを明かした。「亡くなる前にせめてお礼をしなければ、と思ってね。小佐野会長を欧州旅行に招待しました。JALのパリ支店で旅行の段取りをさせ、時計をプレゼントした覚えがあります。ただ、あの人はめったにモノを受け取らない。それで記念に残る何かを贈るつもりで、銅像を本社に運んだこともありました。等身大より少し小さな160センチくらいの像だけど、200万円くらいかかったかな。造り始めると、俺にも金を出させてくれと申し出る人が多くてね、7人の連名で寄贈し、八重洲の国際興業本社に運んだんです。武富士の武井さんなんかは、小佐野さんに足を向けて眠れないくらい世話になっているからね」
小佐野がアイデン事件の黒幕であるかのように囁かれたのは、こうした森下との深い付き合いがあったからに違いない。 たとえば1980年代に地上げの帝王と恐れられた最上恒産の早坂太吉との取引でも、小佐野と森下の2人が登場する。のちに国土利用計画法違反で早坂が世を騒がせた西新宿の地上げの舞台となる。そこで国際興業とアイチはタッグを組んでひと儲けした。 それはのちに新宿副都心と呼ばれる西新宿6丁目の広さ4800平米の土地取引だ。当初、準大手ゼネコン「間組」グループが再開発を計画したが、そこに最上恒産の早坂が割って入った。やがて西新宿再開発を巡る地上げ合戦に発展し、瞬く間に地価がつり上がっていく。いわばここが都心の土地バブルの始まりであった。
暴力団を使った強引な地上げで知られる曰く付きの最上恒産に対し、間組は頭を痛めた。とりわけ開発に重要な区域の入り口部分となる300平米をどちらが取得するか。そこが最大の課題だった。4800平米の広大な再開発エリアからするとわずかな面積だが、そこがないと開発できない。間組側は、懇意にしていた国際興業の小佐野賢治に相談した。 小佐野は間組の不動産子会社「ハザマ地所」とともに1984年11月、ホテルの建設計画を立て、2社で300平米を買い取った。すでに再開発エリアの4800平米の大半を地上げしていた最上恒産の早坂は、そこに猛然と反発し、陰に陽に脅しをかけた。
そうして揉めるなか、弱り切った間組・国際興業連合と最上恒産のあいだに立ったのが、アイチの森下である。森下は早坂に手形貸し付けをしてきた、いわば金主でもあった。「会長、間組に手を引いてもらえるよう、お願いできませんか」 森下が小佐野に頼んだ。結果、国際興業とハザマ地所は1985年2月、ホテル計画を立てた再開発の入り口部分を売却した。むろん小佐野が損をするわけではない。くだんの土地の一部は、国際興業とアイチを経由し、最上恒産へと転売された。おかげで国際興業に5億円、アイチに1億2000万円の売却益が転がり込んだ。これが、まさにアイデンの架空増資話が持ちあがった時期と重なる。
国際興業の小佐野は、1973年5月に東急電鉄グループから第二地銀「国民相互銀行」を買い取り、かねて森下や武井などいわゆる街の金融業者を支援してきた。森下にとって小佐野は、同じ甲州閥の東京相和銀行の長田庄一と並び、財界の恩人といえる。 その小佐野にはロッキード事件以外でも罪に問われ、服役した経験がある。古くは終戦3年後の1948年9月、米軍のガソリンの不正販売で重労働1年の罪を科され、刑務所から出所したあと国際興業の社長から会長に退く。正式には組織上会長というポストはなく、社長は社の長で、会長はその上に位置するという意味合いで、会長に就任したのだという。いわば通称のようなものだ。
アイデン事件で逮捕、起訴された森下は、小佐野に倣ったのだろう。東京拘置所に勾留され、3カ月後に保釈されたあと、アイチの社長から会長になる。国際興業と同様、アイチも組織上、会長職はなく、会長はあくまで呼び方に過ぎない。 アイデン事件の公判が大詰めを迎えた1986年9月、森下はここから7年間、アイチの取締役から外れるが、周囲はずっと会長と呼んだ。森下が登記上の代表取締役に復帰したのは、バブル崩壊後の1993年5月である。
アイデン事件で森下に代わり社長に就任したのが、市橋利明だ。この社長人事でも小佐野は森下に手を貸している。事件の渦中、アイチの社長になった市橋は京大卒業後に旧大蔵省入りし、小佐野の率いる国民相互銀行に天下っていた。保釈された森下は虎の門病院に入院していた小佐野を見舞った。
「アイチの社長を任せられる人物を探しているのですが、会長のところにはいませんでしょうか」 そう申し出たところ、小佐野が即断したという。「それなら市橋だ。本人に言っておくよ」 森下自身にそこを確認すると、こう認めた。「あのとき市橋は小佐野会長に頼み込んでうちに来てもらったんだよ」
アイデン事件のイメージを払拭したかった森下は、大蔵OBの市橋を使い同時に金融行政を担う大蔵省とのつながりを持とうとしたのだろう。それは、国民相互銀行のオーナーとして君臨する小佐野と同じように、銀行を手に入れたかったからだ。事実、このあたりから森下は全国の有力な銀行株を買い漁っていく。街金融業なら都道府県の所管だが、銀行は設立認可をはじめ他行との合併、金利の設定や金融商品の運用にいたるまで、大蔵省がすべての行政権限を握り、それを行使してきた。森下は市橋に大蔵省とのパイプ役を期待した。 おまけに小佐野は、アイデン事件の公判対策にもひと役買っている。ロッキード事件公判において田中角栄が名立たる大物弁護士を顧問にして争ってきたのは有名だが、小佐野と田中には30代の頃から共通の顧問弁護士がいた。戦中から終戦にかけ、広島控訴院や名古屋控訴院で検事長を歴任していた正木亮だ。控訴院は現在の高等検察庁にあたる。戦後、弁護士に転身した正木は、小佐野を田中に引き合わせた上、二人の法律顧問となった。
おかげで小佐野も検察庁やヤメ検弁護士の人脈を広げた。その一人が関野昭治である。関野は東京高検検事としてロッキード事件を担当してきたヤメ検弁護士だ。 小佐野は自社の顧問弁護士の関野を森下に引き合わせた。森下はアイデン事件で関野を代理人に立て、公判に臨んだ。ヤメ検の効果があったのだろうか、森下は事件で塀の中に落ちずに済んだ。 1986年10月16日、東京地裁はアイデン社長の山内に懲役2年6月、常務の渡辺に懲役3年の実刑判決を下した。だが、森下は懲役1年、執行猶予2年の有罪判決となり、事件は幕を閉じた。
小佐野賢治はアイデン事件の判決から2週間足らずのちの10月27日、虎の門病院で息を引き取った。ストレス性の胃潰瘍が死因だというが、ロッキード事件とのかかわりをはじめ、その生涯に謎は多い。 森下は小佐野の盟友として知られる田中角栄とも知遇を得るが、その詳細は稿を改める。森下にとって、心酔してきた小佐野の死は痛手だった。そしてこれ以降、決して事件の表舞台で役回りを演じることなく、黒幕としての道を歩んでいくようになる。
(第二部第2回につづく)
【プロフィール】森功(もり・いさお)/ノンフィクション作家。1961年福岡県生まれ。岡山大学文学部卒。新潮社勤務などを経て2003年よりフリーに。2018年、『悪だくみ―「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。近著に『菅義偉の正体』『墜落「官邸一強支配」はなぜ崩れたのか』など。
※週刊ポスト2022年3月4日号
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