スイスは、個人資産保有高で世界トップクラス。世界の富裕層の資産管理を引きつける魅力があり、さまざまな富裕層向けサービスを扱う産業が発達している(2021年6月9日付地域・分析レポート参照)。本稿では、高額有形資産の管理をビジネスモデルにしているフリーポート(保税倉庫)とその関連ビジネスについて述べる。
スイスは欧州の中心に位置し、政治的に安定した地域だ。このことから、昔から交易が盛んで、周辺国から移ってきた技術者も多い。それが、交易(2019年6月17日付地域・分析レポート参照)、宝飾品、染物に関する産業の発展につながった。ジュネーブでは、交易の利便性を生かした保税倉庫産業が古くから発展。最近では富裕層を対象とした絵画、金、ワインなどの高額品を収蔵するビジネスが拡大している。
保税倉庫・地域とは、外国から輸入した貨物を、関税の賦課を留保した状態で保管することができる倉庫・地域をさす。第三国への転売や国際展示会に参加する美術品などは、最終的にその国にとどまらない。そのような物品は、輸入手続きをした後に再輸出手続きを行うことがそぐわない。そのため、保税倉庫を用いた免税手続きが有用だ。例えば、時限的にスイス国内にいったん搬入(輸入)し、搬出(再輸出)するものについて、保税倉庫での検品を行うことにより、関税やスイス国内の付加価値税を留保することができる。アート・バーゼルに出展する美術品などの場合、作品の所有者の国からイベント数週間前にスイスに搬入し、保税倉庫で受け入れの検品を実施し、展示会終了後に再度フリーポートでの検品を経て所有者の国に戻される。この制度は、外国から借りた美術品が無税で国内展示・鑑賞できることから、美術の振興のためにも重要といえる。ちなみに日本にも、国際展示会への出品物を免税とするために、展示会場を保税展示場として指定する制度がある。
ジュネーブ・フリーポート (Ports Francs et Entrepôts de Genève、「ジュネーブ保税港と倉庫」の意)は、1889年に設立された世界最古かつ最大の保税倉庫だ。ジュネーブ空港側と市内東側のエトワール地区に拠点をもち、貸倉庫の面積は15万平方メートル以上ある。顧客財産の保全管理全般を主な業務とし、近年は時計、ワイン、美術品、金地金など高額な有形資産の管理に特化している。ジュネーブ・フリーポートのアン・クレア・ビッシュ(Anne Claire BISCH)事務局長によると、「全世界の個人収集家の財物の6~8%がジュネーブに収蔵されていると推定」される。報道などから、多数の美術館・資産家・ギャラリーが絵画や彫刻など美術品を当フリーポートに保管しているとみられる。また、保管されているワインは約250万本とされる。世界最大のワインセラーでもあるのだ。現在、フロアの98%が埋まり、事実上空きがない状況という。
ジュネーブ・フリーポートは、その長い歴史の中でビジネスモデルを変えてきた。2020年11月22日付の「トリビューン・ド・ジュネーブ」紙では、その変遷についてアラン・デクラサス事務局長(当時)に対するインタビュー記事として、以下のとおり報じた。
このように、ジュネーブ・フリーポートは美術品を安全かつ適正な状態で保管したいという富裕層のニーズに応えてきた。2017年にニューヨークのクリスティーズで絵画作品として過去最高額の約4億5,000万ドルで落札されたレオナルド・ダ・ビンチ作の「サルバトール・ムンディ」も、保管場所が実はフリーポートだったと報道されている。フリーポートに収蔵されている美術品数は120万点ともいわれる。保税倉庫内にギャラリーを開設している事例もあるようだ。2020年6月12日付の「ル・モンド」紙によると、フリーポートに保管されている美術品や骨董(こっとう)品の総額は1,000億ドルに上るといわれる。
ジュネーブ・フリーポートでは、有形資産の保全を主な目的とする顧客向けに、フリーポート(保税倉庫)ゾーンとは別に、スイスゾーンを隣接。厳格なアクセス管理とセキュリティー、温・湿度管理を提供している。ジュネーブ・フリーポートはスイスゾーンとともに、美術館やオークションハウス、アートフェアへの参加ディーラーなど全世界に顧客をもつ世界最大のセーフルームとも呼ばれる。
スイスが国際的な金融資産の預け先とされたころから、保税倉庫では、富裕層や銀行が保有する金やダイヤモンドを保管するようになった。ダイヤモンドの採掘・販売大手デビアス(本社:英国)は2001年まで、主要な活動拠点をルツェルンに置いた。スイス国内で流通するダイヤモンドの原石は当時、ほぼ全てジュネーブ・フリーポートを通っていたといわれる。しかし、紛争地で産出された金やダイヤモンド原石の取引は、マネーロンダリングや武器購入に用いられる懸念がある。ジュネーブ・フリーポートは取引に関して高い秘匿性を誇るだけに、逆に批判を受けることになった。
そのような中、ダイヤモンドの国際的な原産地認証制度を協議する「キンバリープロセス」が2002年にスイスで合意された。ジュネーブ・フリーポートでは現在、ダイヤモンドの受け入れは認めていないとのことだ。
スイスの保税倉庫ビジネスは、透明性の向上が非常に重要な課題となっている。これは、ジュネーブ・フリーポートの秘匿性が悪用され、盗品が持ち込まれる例が確認されているからだ。例えば2014年、約30年前にエジプトで盗まれたと考えられる石碑が発見された。2016年には、第二次世界大戦中にナチスがユダヤ人画商から略奪したとみられる絵画が発見された事例が報道されている。2016年に関税法が改正され、保税倉庫に収納する際に規制される機微物品が拡大した。保管依頼者名に加えて所有者名、美術品の場合は作品のタイトル、大きさ、評価額の申告が必要とされた。また、スイス国内から国外に輸出する際に保税倉庫を利用する場合は、保管期間に上限(半年)が設けられた。これは、外国からの受け入れが無期限なのと対照的だ。また、ジュネーブ・フリーポートが受け入れた有形資産の目録は全て電子データで提出することが義務付けられた。これにより、税関職員はこれらのデータベースにアクセスすることで資産内容が把握できるようになっている。保税倉庫の出入りは常にチェックされるが、ジュネーブ・フリーポートは顧客の身元確認に特に重きを置いているという。
同フリーポートの法人形態は、民営の株式会社(SA)だ。ただし、ジュネーブ州が87%を出資し、経営陣にも州政府職員が参加している。敷地もジュネーブ州の所有地で、経営は極めて安定した体制となっている。
ジュネーブ・フリーポートのビジネスモデルについて、ジェトロは2021年3月11日、アン・クレア・ビッシュ(Anne Claire BISCH)事務局長にインタビューを実施した。同氏は英国ロイズ銀行で勤務を始め、美術作品などの損害保険に20年以上携わった経歴を持つ。2020年11月1日に事務局長に就任した。
各国の保税倉庫の状況をみると、シンガポールの保税倉庫は2010年に竣工(しゅんこう)し、面積は約2万5,000平方メートル。そのうち40%がクリスティーズの美術品収蔵に当てられている。また、ルクセンブルク保税倉庫は2014年に開設され、面積は約2万平方メートルという。
ジュネーブ・フリーポートは、美術品とワインの取り扱いで2000年以降、急速にビジネスを拡大させてきた。シンガポールとルクセンブルクは、そのビジネスモデルをそのまま取り入れたものといえる。ジュネーブ・フリーポートの最大テナントだったアートディーラーのイブ・ブビエ(Yves Bouvier)氏が所有していた美術品管理会社ナチュラル・ル・クルトル(Natural Le Coultre)は、2010年にシンガポールに拠点を開設。2014年には、ルクセンブルクに拠点開設した。その後、2017年に同氏はフランスのロジスティクスと美術品管理も行うアンドレ・シュニュ(Andre Chenue)に同社を売却した。
一方で、最大の美術品取引市場といえば北米だ。その北米でも、芸術品を取り扱う保税倉庫が2015年にデラウェアで開業。さらに2018年には、ニューヨークにARCISが開設された。ARCISはさらに大きな保税倉庫で、芸術品を扱うことができる。
アジアでも保税倉庫ビジネスが広がっている。2014年には北京に芸術品を扱う保税倉庫がオープンした。ビッシュ氏も述べているとおり、今後急成長が見込まれるのが中国だ。
ジュネーブ・フリーポートは、保税手続きや有形資産の保管に特化する。その周辺サービスとして、絵画・美術品の受け入れ・搬出時に品質や同一性の検証をするサービスを独自技術により展開している事業者が存在する。アートミン(ArtMyn)もその一例だ。同社は、ジュネーブの保税倉庫に出し入れされる絵画・タペストリー・コイン等を対象に、高精度スキャニング・分析やデジタルアーカイブ化などの事業を展開する。ジェトロ・ジュネーブ事務所は2021年3月12日、同社を訪問した。
アートミンは連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)のスピンオフで、2016年に設立された。
オセアン・ナビンスニ氏の説明によると、アートミンが開発したスキャニング用の撮影機は、縦2メートル、横2メートル、厚さ30センチ以内の美術品を自動で撮影・記録できる。67個の自然光、近赤外光(NIF)、紫外光(UV)ライトが円形のドームから中心に向かうよう設置。1カ所当たり8センチ四方の区画で切って、それぞれのライトが順次発光して、超高精細カメラ(500dpi、1平方メートル当たり35億ピクセル)により画像を撮影する。これらの画像から、芸術品の凹凸や色彩をさまざまな方向からの光源でみた場合の画像を記録する。また、筆遣い、塗り重ねられて表面下に隠された画像、傷の有無も記録することができる。これを美術品の全面積で繰り返すことにより、デジタル空間上で美術品の克明な記録(デジタルツイン)を作成することができる。
この技術で実現されたサービスが、「5Dアートカタログ」だ。いわば、オークションハウスが出品に当たって作品ごとに作成するアートカタログのデジタル版だ。もっとも、これまでの印刷カタログでは特定の方向からの入射光に対する画像が掲載されているだけだった。しかし、デジタルデータを合成することにより、光の入射角度・方向、ズーム、スクロール、傾き・回転角度をインタラクティブに変え、絵画の状態を見ることができる。自然光、赤外光、紫外光による画像を同時に撮影しているのも特長だ。その結果、その重ね合わせで絵画の傷や下絵などの状態も見ることができる。
この技術をさらに鑑定に応用したのが「デジタルパスポート」だ。5Dアートカタログでは、絵画ごとにその時点の画像、傷などの状態を生体認証のように正確に記録することができる。そのさまざまな時点の記録を比較することで、オリジナルの状況変化を検出できる。具体的には、いったん保税倉庫から出庫前に状態を記録しておき、展示会出品など外部での使用後に返却された時点で絵画を再撮影することで、展示会利用の間、劣化がなかったかを検証することができる。
また、顧客が自分の手元で撮影したい場合には、機材の有償貸与にも応じている〔1機材2,000スイス・フラン(約24万円、CHF、1CHF=約120円)〕。ちなみに、同社に保税倉庫内での撮影を委託する場合、1作品当たりの撮影料は99CHFとのことだ。
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